小声日記

初めてのpython、編み物、日々考えることなど

Jアラートとこの世界の片隅にと最終兵器彼女

Jアラートに叩き起こされた朝でした。

トイレに逃げ込み、第2報をじっと待っていました。

もし、もし、外から衝撃音が聞こえたら、吹っ飛ばされたら、何もできないんだという恐怖に駆られていた私は、通過の報を聞いてすぐにホッとすることもできませんでした。この挑発行為が戦争の引き金を引くような意味のある行動にならないでほしいと心底祈っています。

 

Twitterで騒ぐ友人たちをみながら、これに慣れてしまうということが現実にあり得るような気がしました。去年、この世界の片隅にという映画を見たのが自分の中で大きいんじゃないかな、と思います。

 

 

この世界の片隅に

konosekai.jp

戦時中の普通の人、すずさんの生活を描いた作品で、私たちの生活と戦争が地続きであることを感じさせてくれます。戦争に突入し、日本はどんどん貧しくなっていくけれど、人々はそれでも工夫しながら少しでも楽しく生活しようと支え合っていたし、人の生活の喜びは失われていませんでした。けれど、その人が死んでしまうということも同時に当たり前にありえてしまう残酷な世界があったということを教えてくれます。

私は映画館でこの作品を見た後、頭で消化するのに時間がかかったようで、帰りの自転車をこぎながらふと胸が熱くなったり、涙が出そうになったり1時間くらいはぽわぽわしていました。

それで、すずさんたちは普通に生活しているまま、戦争に適応しているんですよね。

だんだん配給が少なくなったり、空襲警報の頻度が高くなったりしても、ちょっと大変ね、くらいでなんとか適応して生きてるんです。兵隊に行った人が無事に帰ってきてくれますようにって、親しい人の生を希望にして生きていけるんですね。

 

私はそれまで戦争って、劇的に失い、悲しみに飲まれているものだと思っていたんですけど、そうじゃないんだっていうのが衝撃的でした。失っても、生きていかなくちゃいけない、前を向いて生きねばならない。そう思えるような適応力を誰もが持っているんだっていうことに気がつきました。

でも、その適応力が私にとっては少し怖かったのです。生活できちゃうんだ?っていう驚きがありました。戦争が行われていても、生活が苦しくなっても、生きられるんです。慣れちゃえるんです。自分は今生きていけているからって苦しいことを受け入れられる、それってとても怖いことだなあと思うんですよ。自分が人として扱われないことすら、生きるためにはきっと許しちゃえるんですよ。

 

だから慣れちゃうことが、適応ハードルをどんどん下げていってしまうようで恐ろしくなってしまったんです。

私は自分の生死を人にゆだねるようなところまでハードルを下げたくない。そう今は思っているけれど、きっと、恐怖から目をそらすために茶化して慣れようとしていたら、気がついたら元に戻れないところまでいってるんじゃないか。もうそんな状況に入ってるんじゃないか。という不安がもやもやと頭の中を渦巻いています。

 

 

あと今回、同じ状況を共有している友人がいるTwitterになんとなく元気をもらったし、家族ともすぐ連絡を取れたので安心することができました。けど有事の時ってそういう通信網ってぶっ壊れて使い物にならなくなるんだよね、ということを思い出させてくれたのが最近マンガワンで読んでた最終兵器彼女です。

 

最終兵器彼女

最終兵器彼女(1) (ビッグコミックス)
 

 最終兵器になってしまった彼女「ちせ」とその彼氏シュウジの物語です。戦争描写や心が壊れていく描写はもちろん辛いのですが、メインとなる学校生活のシーンとその背後に忍び寄る戦争の影が、恐ろしいのです。なぜか戦時中に入っても学校生活を続けている主人公たちですが、放送局がダメになっているためテレビが使い物にならなくなったり、校庭を畑にしたり、配給が減ったり、牛乳が貴重品になってることなどをごくごくさらっというんですよ。

情報が来ないから、ダメなんだろうなということはわかっても、それがどういう悲惨な状況なのか全くわからないで平和ボケしていられるのってすごく怖くないですか。世界全体で見ていれば今だってその状況だよって話ではあるんですが、身近な人がいる同じ国でさえ、情報が潰されてしまえば起こりうるんですよね。

 

そういえば、3.11の時、被災県以外の方は津波などの衝撃的な映像をリアルタイムで観ていたけれど、とうの被災県の方は停電、被災で連絡網情報網がダメになり、その映像や正確な情報を知ったのはずっとあとだった、ということがありましたね。目で見られる情報の情報量はすごいですよ。ラジオで津波が発生と言われても、なんのことかどうなっているのか全くわかりませんからね。

これが人為的に行われたら、目で見る情報に依存している私は、どうなってしまうんでしょう。スマホが使い物にならなくなったら、テレビが映らなくなったら、私は一人で目の前の現実に向き合えるのかな。

 

 

生まれてからずっと平和ボケしている私のぼけぼけな不安を書きました。

自分を守るために、生きるために頭を働かせることが必要とされているような気がする今日の出来事でした。